HOMENOVEL

セイレーン〜novel side.

02.女神の御子1


「フィーちゃん!なんだか最近ご機嫌だね!」
 お花屋のおばさんから花束を受け取ったフィーは、陽気な笑顔で肩を叩かれ、思わず顔を綻ばせた。
おばさんの言う通り、最近のフィーは鼻唄まで歌いながら歩いてしまう程、上機嫌だった。
 ―――理由はただ一つ。
 あの夜から、フィーの胸は灯りが点ったように高揚していた。もう五日は過ぎているとは思えない。あの美しい姿を、歌声を、思い出すだけで鼓動が早鐘を打つ。時折ぼんやりして授業で叱られることが増えてしまったが、悪い事とはわかりつつも、今のフィーには気にならなくなっていた。
 少し前まであんなにも重りがついたように気持ちが沈んでいたのが、まるで嘘のようだった。
 ただ、一抹の憂いもある。
 一瞬だけ陰りがさしたフィーの、耳にそれは飛び込んできた。
「またセイレーンが出たらしいぜ?」
「ああ、あの怪鳥な。俺のダチも襲われたってよ」
 思わず、身を強張らせる。
 花屋の隣にある雑貨屋の前で、荷を下ろし受け取る商人達の話だった。
 ―――セイレーン。
 その響きが、フィーの耳に木霊する。
 この街に至るにはカテナ山を越えなくてはならない。カテナ山はテーナ地方でも一の高さを誇っていた。隣町のトランデへはトンネルや谷間をいくつも抜けて辿り着けるのだ。
 そして、その山岳地帯にセイレーン達は住まうという。
「・・・・・・・」
 セイレーンは魔性だ。
 綺麗な歌で人々を惑わし、襲い、喰らってしまう。
 陸路の被害だけではなく山に隣接する海でも、セイレーンが船を沈めた話が絶えない。
十数年前から突然その被害が増え始め、このローレライの街ではセイレーンといえば誰もが眉をひそめる、フィーも幼い頃から度々聞かされる魔性の一つだ。
 ここでセイレーンに心奪われた等と言えば、咎められるのは必至だった。そもそも教会の掟に背く事で、口が裂けてもそんなことは言えない。
「こっちも花畑が山の方にあるからさ、いつ襲われるのか気が気でないよ」
「た、大変ですね。・・・お花、ありがとうございました! また・・・!」
「はいよ。気をつけてね!」
 その場から逃げるように、フィーは駆け出した。おばさんは少し驚きつつも、手を振ってその背中を見送る。
 雑貨屋、喫茶店、宝飾屋、色々な店が並ぶ大通りを足早に抜けた。街の中央に位置する広場に向かう。その奥に厳然と聳えるのは、聖ローレライ大聖堂。今も多くの人が出入りし、祈りを捧げている。
 そこに隣接しているのが、大きさの違う三つの聖堂だ。大聖堂を中心に中庭の渡り廊でつながっている。
 フィーは人々が使うメインの扉ではなく、少し離れたところにある小さな扉から中に入った。手入れの行き届いた庭を横切り、管理舎へ歩く。
「こんにちはー・・・」
 フィーはノックをして返事があった後、裏手にある扉を開けた。室内には普通の家の台所のような空間が広がっていた。宿直の髪の短いシスターが帳面から顔を上げる。
「あら、フィーさん。いつもありがとうございます」
「いえ・・! これ・・・今日のは、すみれ草でまとめてもらいました」
「まあ、フォルトゥナ様の色ですね! ありがとうございます」
 フィーの差し出した花束を受け取り、シスターはやわらかな笑みを返した。
 毎週、家からの寄附として教会にお花を渡すのが、フィーにとっての恒例になっていた。小さい頃からの習慣で、既に教会のシスター達―――今日はリィレさんだ―――とも顔見知りだ。
「今日もまた練習ですね。頑張って下さい」
「ありがとうございます」
 リィレの真綿のような微笑みに、フィーの心もほどかれ自然と口が綻ぶ。少し雑談をしてから、まだ仕事が残るリィレに悪いからとお辞儀をしてその場を後にした。
 暗雲とした気持ちが溶かされ、フィーは足取りも軽く授業がある第三聖堂に向かった。
 授業が始まるまで、まだ半鐘以上あった。皆が来ていない閑散とした聖堂で、フィーはその最前列の椅子に腰掛け、女神の像を仰ぐ。
「・・女神・・フォルトゥナ・・・」
 ぽつりと、フィーの呟きは湖面に落ちた滴のように浸透した。
 静かになるとまた、あのセイレーンの歌声がどこからともなく聞こえてくるようだった。瞼を閉じれば女神の像が消え、あの美しい羽の魔性へと姿を変える。
 聖なる女神とは相対する、魔なる生き物。
 しかしフィーの胸は高鳴るばかりで、教義などもはや意味をなさなかった。堪えきれなくなって、ゆっくりとその唇を開く。
「Aah・・・」
 あの歌を、反芻する。
 一度聞いただけのうろ覚えだったが、耳に残る旋律。言葉はわからなかったが、メロディだけなら辿ることが出来た。
 ・・・海の底にたゆたうような調べ。あの純白の羽が舞い上がり、水面に浮上する。泡のヴェールの先には、銀色の月が天高く昇る。海の深淵から虚空の果てへと響く、未知の歌。
 儚くも美しく、幻想的に。
 それには到底及ばなくとも、フィーはセイレーンに対する恋慕だけで歌い続けた。
 ゆっくりと、窓に差し込む日の光が角度を変えていく。七色の聖堂にしとやかに歌が満ちてそして、――――ガチャリと、入り口の扉が開いた。
「ah・・・っ!」
「・・・・・・」
 セイレーンの事しか頭になかったフィーは、これでもかとびくつき、歌を止めた。思わず立ち上がり振り向くと、開いた扉から入る外の光に、一つのシルエットが浮かび上がっていた。
「・・テオドール・・!」
 聖堂に入ってきたのは、動揺し目をしばたかせるフィーとは正反対の、硝子のように涼やかな目をしたテオドールだった。しかしその表情はいつもとは少しだけ違い、僅かに揺れ見開かれていた。
「・・・お前」
「・・・・っ」
 フィーとはそこまで変わらない身長と体躯。にもかかわらず、近づいてくるその圧倒感にフィーは身をすくませる。
 当たり前だ。
 フィーは今、聖歌ではない歌を口ずさんでいたのだ。しかも教会の聖堂で。それは明らかな背徳行為であり、聖職者に見つかれば厳しく罰せられてしまう。それだけではなく、何であれ歌を聞かれた恥ずかしさや、女神ではなくセイレーンに思いを馳せていた微かな後ろめたさも相混じって、フィーはもうどうしていいかわからなくなった。
 テオドールは胸元のスカーフを風になびかせ、早歩きでフィーに詰め寄る。
「・・・っ・・」
「・・・・・・」
 テオドールの方が一つ年上だが、背丈は指先程度の差しかなかった。間近で瞳を向けられ、フィーは怯え震えると視線を足元に逃がす。
 動揺と混乱で頭が真っ白になったフィーには、とてつもなく長い時間に思えた。気が遠退いてもう駄目だと思った直後、
「いや、いい・・」
「・・・・・・?」
 テオドールはそれだけ言うと、フィーとは反対側の長椅子に腰掛ける。背筋を伸ばし瞑想するその様は、放たれる雰囲気も相まって、まるで聖像のようだった。
 訳がわからずフィーが立ち尽くしていると、また入り口の扉が開き、続々と聖歌隊のメンバーが揃い始めた。一人動揺して身構えるフィーの前を、見慣れた顔が訝しげに通り過ぎる。
 彼らはテーナ各地方から集められた子供達で、フィーやテオドールのようにこの街に元々住んでいる者はごく僅かだった。 このひと月、寄宿舎に共に住んでいる彼ら同士は仲が良さそうだったが、そうではないフィーはあまり交流がなく、少し言葉を交わしたことがある位だ。
 教会の小さな鐘の音がなる。
 予鈴と共にマルシアが入ってくれば皆が列に並び、フィーも定位置についた。いつも通りの練習が始まる。
「ahh・・・・・・」
 胸の内がざわめく。
 中央に立つ少年の背中を見つめる。
 ―――女神の御子。
 聖堂に奉られている女神の像は、赤子・・・つまり人間に子守唄を歌っている場面なのだという。その御手に抱かれている子供は『女神の御子』と呼ばれ、女神の寵愛を受ける特別な歌い手として、教会が毎年一人選定している十から十八までの少年少女を指す称号にもなっていた。
 テオドールは正しく、その『御子』に相応しかった。
 今現在、女神の御子姫と呼ばれ、この五年間その任を受けているのは、歌い手であり王族でもある有名な娘だ。テオドールは既にその彼女に並ぶと賞されるレベルにあった。
 透き通った声音。あの乏しい表情からは思いもよらない表現力と 、小柄な身体から溢れ出す力強さ、描き出される世界の美しさ。聴く者を魅了してやまない、彼の歌。そう、あのセイレーンのように―――
「フィーさん!」
「っ?!」
 突如、頬を叩くようなマルシアの呼び声に、フィーの意識は外へと引きずり出された。目の前にあった眼鏡越しのマルシアの瞳に、嫌でも現実を突き付けられる。
「フィーさん? 貴女は最近、どうもぼんやりしていることが多いですね。貴女は今、何の為にここにいるのですか? 歌わないのであれば出ていきなさい」
「す、すみません・・・歌い、ます・・!」
 歌の練習中、思考に没頭するばかりか、伴奏が止まりマルシアがこんなに近くに来ても気づかなかった。流石のフィーも冷や水を浴びせられたように凍りつく。
「・・・それとも、どこか具合でも悪いのですか?」
「いえ・・!全く、ないです、本当に申し訳ないです・・・・!」
 少し気遣わしげに瞳を細めたマルシアに、フィーは全力で頭を振った。
自分勝手に迷惑をかけた上に心配させてしまったとあっては、謝っても謝りきれない。
 必死に否定するフィーに、マルシアはそうですかと、いつもの表情に戻った。
「ならば。歌う場にあり、歌うことを許された者であり、にも拘らず歌に集中出来ないなどとは、女神に対する冒涜ですよ! よく戒めるように!」
「はい、本当に申し訳ありません・・・!」
「次はありません。皆さんも、わかりましたね?! では、先と同じ場所から始めます」
 フィーは周りからの疎ましげな視線を一身に受け、本当に心から懺悔した。頭にちらつくセイレーンの影をなんとか振り払って、今に集中する。そして決意して顔を上げた矢先、それに気づいた。
「・・・・っ・・」
 いつもなら何が起こっても特段興味がなさそうな彼の瞳が、じっとフィーを見つめていた。
 ・・・テオドールも、怒ってるんだ・・・。
 先のこともあり身がすくんだフィーだったが、ますます気を引き締め直して練習に望む。
 浮き袋もなく大海を泳ぐように、何度も溺れかけながら、その日はなんとか歌いきった。号令が終わると同時に、誰よりも早くフィーは聖堂を飛び出す。
 その後ろ姿を追ったのは、 テオドールの視線だった。
「・・・そうだ」
 小さく呟くと、彼もまた聖堂を後にした。





「フィー、あなた最近帰りが遅いんじゃない?」
 窓の向こうで、二匹の小鳥が仲睦まじくさえずる朝。
 支度を整え、朝食のスープを口に運んでいたフィーは、母の言葉に思わず固まってしまった。
 自然色でまとめられた小さなキッチンで、止められたばかりのポットがカタカタと揺れている。二人用のテーブルで向かいに座った母のリゼーヌが、心配そうに顔を覗き込んできた。
 フィーとは違う榛色の瞳が瞬きを繰り返す。下ろされた髪はフィーよりも長く明るいオーカー。癖っ毛が強く、肩の辺りで面白いくらいに踊っている。
 フィーは視線を泳がせながら、なんとかスプーンをお皿に戻した。
 ―――あれから毎晩のように、あの海辺に足繁く通っていた。
  セイレーンにまた会いたいという、どうしても押さえきれない衝動。今こうしている間にも、あの姿が、歌が、頭をちらついてしまうのだ。
「ま、前にも言った通り、秘密の特訓してるんだよ? だから、みんなにも、内緒、にしてね」
「ふふふ、お母さんとっても嬉しいわ!フォルトゥナ様の為に頑張るフィーちゃん! 女神様も大層喜んでいらっしゃるに違いないわ!・・・でもね、やっぱり夜は危ないから、早めにちゃんと帰ってきなさいね?」
「・・・うん!」
 リゼーヌは熱心な教会の信奉者だ。娘のフィーが魔性であるセイレーンを待っているなどと知れば、気を失ってしまうかもしれない。
 後ろめたさを振りきるようにフィーは大きく返事をして、食事の途中で席を立った。
「ごちそうさま・・っ・・行ってきます!」
「あら、いってらっしゃい。気をつけてね!」
 鞄を肩からかけ、ケープを片手に家を飛び出す。
 玄関先の手入れされた花々を横目に坂道を下る。遠くに海を望みながら、斜面に後押しされるように走り続けた。
天気は快晴。ここからでも朝日に照らされた波がキラキラと輝いているのがわかる。途中いくつか横道を曲がり、いつもの大通りに出た。
 今日はお花の日ではないので寄る必要はなかったが、おばさんがいれば挨拶をしようと足を緩めたその時。
「おい聞いたか? セイレーン討伐隊の話!」
「っ?!」
 フィーの聴覚はそれを捕らえた。
 思わず足が止まり、声のした方向に聞き耳を立てる。
 ・・・セイレーン・・討伐?
 耳を疑いたくなる、信じられない単語に鼓動が早くなる。
「聞いた聞いた。何でも、中央教会の楽団が本格的に乗り出すんだってなー」
「こりゃあ、御子姫様が来るって噂も本当かもな!」
「御子姫様ってあのユリスティーナ王女のこと?」
「それ以外に誰がいんだよ!」
 フィーより一回りは上の青年三人組が、口々に話している。
「え、何で御子姫と討伐が関係あんの?」
「そのユリスティーナ様が安全にこの街に来れるように、道中のカテナ山道に巣食うセイレーンどもを駆除するんだとー」
「そうだそうだ」
「へぇー、でもなんで楽団?」
「お前バカかよ? 楽団が女神様の曲で、魔性を討つんだろが! あ〜でもよ、俺らが動くよりも教会が先に動いてくれてよかったぜ」
「全くなー。規模も威力も桁違いだしな」
「しかもよ! 今回は楽団の中でも、あの祓魔士達が動くらしいぜ?! 間違いなくセイレーンは全滅だろな」
「祓魔士とか怖ぇー」
「でもさ、御子姫様が来なかったら、なかったんだよね? なら、御子姫様ばんざーい!」
「ホント様々だぜ」
「そういやぁ、前にもこんなことあったよなー」
「ああ、あったあった。ありゃあ王都近くのハルピュイア討伐だったっけか?」
「そうだハルピュイアだ。オレらがまだガキだった頃だよなあ確か。あれから全く聞かなくなったし、もう一匹もいないのかねー?」
「楽団の力はホントすげえな!」
「へぇーそうなんだ。つかさ、なら俺らも初めて生で見れるんじゃね?! 御子姫様!」
「おっそうだな! すっげぇ可愛い子らしいぜ?」
「しかも王族だろー?凄いよなー」
「は〜いるんだねぇ。世の中にはそんな子が」 「俺らとは住む世界がちげえんだよ」
 買い出しか何かの袋を抱えたまま、手にした箒に顎を乗せたりと雑貨店の前に屯しながら、彼らの談笑は続く。
しかしその長い会話でも、フィーの頭には特定の単語しか残らなかった。
 ・・・全滅? セイレーンが?あんなにも、あんなにも綺麗なのに・・・!
 瞬きも忘れて、その場に立ち尽くす。雷に撃たれたような衝撃が走り、麻痺させられたように動けない。
「・・・・あの!」
「こらお前ら何サボってんだ! 早くしろ!」
 より詳しい話を聞こうと、やっとの思いでフィーが声をかけた時には、
「うわっやべ!」
「すんませんませんー!今から行きます!」
「あっ俺も裏口にコレを〜」
 どこからともなくやってきた恰幅の良いおじさんの一声に、三人は蜘蛛の子を散らすように去っていってしまった。
「あ・・・・・」
 フィーの呼び掛けに気づく者はおらず、話を聞くことは出来なかった。行き場のなくなった手を胸に当てて、握りしめる。
 動揺が止まない。
 頭の中で色々な言葉や声が感情がごちゃまぜになって、今にも破裂してしまいそうだった。
 無我夢中で、分けもわからず、その場からまた駆け出した。
 まるで呼ばれているように、ただあの場所へ―――

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