HOMENOVEL

セイレーン〜novel side.

06.エーレ1


「お母さんごめんなさい!」
「フィー・・・?! フィーなの?!」
 翌朝。
 フィーは朝一番に家へと駆け込んだ。
 乱暴に開けた玄関の先。そこには両目の下にクマを作り、テーブルの上で祈るように腕を組んでいた母の姿があった。
 母のリゼーヌはフィーの姿を見止めると、目を見開いて泣き崩れる。
「フィー、フィー! 昨日どれだけ探したか! どこにいたの! 街中探したのよ!」
「ぅ・・っ・・ごめんなさい!海辺で歌の練習をしていたら、嵐に巻き込まれて・・・・ずっと洞窟に避難してたの! 本当にごめんなさい!」
 抱き付いたリゼーヌの服はまだひんやりとしていて、雨に打たれるのを構わず外でフィーを探してくれていたのだろう。あの凄まじい嵐を体感したフィーにとってそれがどれだけ大変なことかは嫌でもわかる。心の底から申し訳なく大声で謝り続けた。
「本当に、本当にごめんなさい・・・・・・!」
「もう・・・・! 教会にも迷惑をかけたんだから! 皆で手分けして探してもらって・・・・・・!朝になっても帰って来なかったら、船を出して海も探そうと・・! あぁ、でも・・本当に、本当に良かったわぁ・・・・っ・・・・!」
 昨日のフィーに負けじと泣きじゃくるリゼーヌに、フィーも涙を溢す。この一晩で憔悴しきったのだろう。疲れきった体に人肌のぬくもりは優しく伝わってきて、フィーはようやくそこで安堵した。
 一頻り抱き合った後、リゼーヌはフィーの頭を撫でながらゆっくりと顔を上げる。
「まず朝ごはん食べなさい? あら、頭に海藻ついてるわよ。ちゃんと服も着替えなさい」
「うん・・・・!」
 お互い泣きはらした顔で破願する。もう一度強く抱き締めあって、腕を離した。
「教会に挨拶に行ってから、一応マグドア先生にも診てもらいましょうか。こんな大事な時にどこか悪くしていたら一大事よ」
「う、うん・・・!わかった」
 マグドアという名前にフィーの心臓は跳ね上がった。なに食わぬ顔で答えてから、逃げるように自分の部屋に駆け込む。
 ―――マグドアはテオドールの父親で、この街の有名なお医者様だ。フィーが生まれるよりも前から、身体の弱いリゼーヌは診察をしてもらっているのだ。
 先生に診てもらうということは、つまりテオドールの家に行くということ。明け方、これからセイレーンについて調べようという話になっていたフィーにとっては好都合だった。
 そのテオドールといえば洞窟を出る際、家のことを心配するフィーとは対照的に、特に慌てた様子もなく「問題ない」とだけ言って帰路についた。
 どうして問題ないのか全くわからなかったが、これからその家にお邪魔すればわかるだろうとフィーは思考を手放す。とにもかくにも、今は迷惑をかけてしまった教会に行くことと、なによりセイレーンの事が一番心配だ。
 昨晩の記憶がいまいちないフィーだったが、朝に見たセイレーンの顔色はすっかり色づきを取り戻していた。目を覚ますことはなかったが、峠を越えたことだけはちゃんとわかった。
 そのまま、洞窟に独り残してきてしまったのが、気が気でならない。これから出来ることを調べて、用事が済んだら真っ先に戻ろうと決めていた。
 フィーは何か役に立つものはないかと 自分の部屋の中を見回す。素早く着替えながら、鞄の中にあれこれと詰め込んでいく。
 周りに心配をかけてしまったすまなさと、セイレーンをなんとかしなくてはならないという気持ちがせめぎあい、フィーは無意識のうちに色々なことを焦っていた。
 だから、
「そうだ、あのねお母さん!セイレーンて――――」
 リゼーヌなら何か力になってくれるのではないかと思いつき、部屋を飛び出して台所に立つ母親に勢いよく話しかけた。
「お母、さん・・・?」
 しかし、その先は続かず止まってしまう。
 なぜなら、
「・・・・・・・・・・・・・・」
 首を傾げるフィーの前で。リゼーヌは目に見えてわかる程、凍りついていた。前髪に隠れた横顔が酷く青ざめているのがわかる。タオルを握り締める手は心なしか震えていた。
「お母、さん・・・?」
「フィー・・・・?」
「な、なに?」
「セ、セイレー・・ンが、どうか、した?」
 ぎこちなく上げられた顔は、表情が固まっていた。見開かれた目は尋常ではなく、無理やり笑おうとした口元が逆に恐ろしい。
 ―――空気が一瞬にして、変わった。
 フィーは二の句が告げず、竦み上がってしまう。
「フィー?そんな、魔性なんて、名前、すら口にしては、ダメ、よ?」
 一歩、また一歩近づいてくるリゼーヌは、まるで幽鬼のような足取りだった。豹変した母親に、フィーは言い知れぬ恐怖を覚える。
「 女神様の、敵、よね?フィー、女神様に・・・フォルトゥナ様に仇なす魔性のことなんて、どうした、の?」
 リゼーヌの問いに、硬直するフィー。
 何がなんだか、訳が分からなかった。
 ただ、ここで自分が本物のセイレーンに会い、傷ついた彼女を手当てしたいなどと口にしたら、どうなってしまうのか。
 そんなことは、火を見るよりも明らかだった。
 フィーは咄嗟に記憶を手繰り寄せ、わななく唇を無理矢理開く。
「街で、聞い、て・・・・」
 嘘は言っていない。あの街角で聞いた話も、セイレーンに関することだった。セイレーン討伐隊。その討伐隊のせいできっと、セイレーンはあんなことになってしまって。
 条件反射のように涙が滲んできた。その瞳で恐る恐る見上げたリゼーヌは、ネジの止まった人形のように沈黙している。
「―――ああ、そう・・・・そうよね。そういえば、そんな話、あったわね。討伐隊、討伐隊ね!そうよ、そうだわ。そうよ、安心ね! あんなもの、死滅させられて当然だわ! あんな・・・・あんな・・・・気味の悪い、忌まわしい屑鳥なんて・・・ッ!」
「?!」
 途端声を荒げた母親に、フィーは目を剥いてびくついた。
 手にしたタオルごと机に叩きつけ呼吸も荒く蒼白した様は、それこそ魔性のようで―――。
「・・・お、おかぁさん・・・」
「・・・・あら、やだ。汚い言葉使ってごめんなさいね? 思わず取り乱しちゃって・・・・・・」
 フィーが絞り出すように呼べば、リゼーヌはようやくはっとして、くまのついた目を細めた。
 いつもの柔和な顔に戻っても、今しがたの恐怖が拭われるわけではなかった。むしろ対照的に際立っていく。
「あぁ、それで・・・その魔性が、どうかしたの?」
「・・・・や、やっぱり何でもない、よ? 支度したから、早く行こう・・・?」
「あらそう? なら、行きましょうか」
 リゼーヌは笑うと自分の身支度を整え始める。
 フィーは後退りながら、その場から逃げ出すように真っ先に玄関へと飛び出した。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・っ!」
 息が上がる。冷や汗が止まらず、胸の辺りを握り締める。思わず寄りかかった扉の向こう側。
 いつもなら安息をもたらすその居場所が、ついさっき感じた安堵感が一変し、何か得体の知れないものが蠢いているように感じた。不安が、募っていく。
 フィーはそれを押し潰すように、ぎゅっと目を瞑った。
 それから少しして家を出ていたリゼーヌと、差し出された手をぎこちなく握り返しながら、フィーは教会に向かったのだった。





『セイレーン』
 それは、美しい歌声で人々を惑わし喰らう魔性。
 人間と同じ姿の上半身に、巨大な翼と鳥類の足を持つ怪鳥。
 その歌声を聞いたものは魂を抜き取られて自我を失い、最期には喰われてしまうという。
 主に山間を住処とし、通りすがりの旅人や商団を次々に襲い、被害を出している。
 十数年前に起こった王都での『ハルピュイアの災厄』の折、合わせるようにその数も激減したが、近年テーナ地方でその姿が見かけられるようになった。
 セイレーンは女神の与えたもうた聖歌とは対極にあたる〈魔性の歌〉の象徴だ。
 聖グレゴリオ大聖楽団でもその危険性は高く位置づけられている。
 魔性に対抗する聖歌に特化した者を〈祓魔士〉の育成など、
中央協会はこれに対抗する術を講じている。





「あら休診・・・? おかしいわねえ、フィアの曜日は必ず開いてる筈なのに・・・・」
 教会で、心配をかけたことを沢山謝り続けた。
 今日は週に一度のミサの日の為、聖歌隊の練習はお休みだった。
 代わりに慌ただしく働いていた神父やシスター達は、皆フィーの無事を喜んでくれた。
 そうして、次に向かったマグドア医院。
 立派な煉瓦造りの大きな建物。壁に這った蔦も風情がある。町一番の医者は、市街から少し離れた、海を望むゆるやかな丘の上に建っていた。
 フィーはリゼーヌについてこれまでも何度が来たことがあった。
 訪ねる者を優しく迎え入れるように、整えられた庭園。しかし、先日の嵐の影響で枝葉が至るところに散乱し、小さな花々も萎れてしまっていた。
 水溜まりを避けながら、フィー達は歩く。
 小さな階段を上がり、病院の入口に辿り着く。いつもなら忙しなく開いたり閉じたりしている扉が、今日は固く閉ざされていた。リゼーヌが目線の高さにあるリングを持ち上げ何度叩いても、中からの反応はない。
「おかしいわねえ。休診の知らせもないし・・・」
 周囲を見渡しても貼り紙はおろか人の気配すらなかった。
 弱ったと頬に手を当てたリゼーヌから少し離れて、フィーが身を乗りだし窓に手をかけ、中を覗こうとした時。
「申し訳ありませんが、今日の診療はありませ・・・」
「テオドール・・・!」
 玄関から顔を出したのは、驚くべきことにテオドールだった。段差でいつもより上にあるその顔を見上げる。
「お前・・・・」
「あらテオドール君、久しぶりね。休診ていうのはどういうことかしら?」
 少しばかり驚いたように目を見開いたテオドールは、リゼーヌに気付くと直ぐにいつもの表情に戻った。リゼーヌがマグドア医院に通っているだけあり、二人も顔見知りだ。
「昨日から院長は中央教会に呼ばれて往診しています。助手の人も全員駆り出されていて、臨時休診中です」
「教会の往診・・・?何か、あったの?」
「・・・・・・。何でも急患が続出したとか。オレも詳しくは聞かされていません」
 テオドールは少し言い淀んだものの、リゼーヌがそれを気に止めることはなく、弱ったと頬に手を当てただけだった。
「・・・・困ったわね」
 フィーに視線をやりつつ、テオドールは尋ねる。
「今日はどういったご用で?いつもの診療なら、ラナの日の筈・・・ですよね?」
「今日は私じゃないわ。娘のフィーを診てもらいたくて・・・・」
「・・・・・っ」
 そこで同時に向けられた二つの視線に、フィーは身を強張らせた。思わずスカートを握りしめて下を向いてしまう。
「どうかしたんですか?」
 しれっというテオドールに、フィーの鼓動は嫌でも跳ねた。いつもの事ながら、フィーには到底真似できそうもない。
「いえね、昨日の嵐に巻き込まれちゃったのよ。だから体調が心配なの。ほら、聖フォルトゥナ祭も控えているじゃない?だからマグドア先生に診てもらいたくてね」
 どうしましょうと頭を抱えるリゼーヌに、診療なら大丈夫と口を開こうとしたフィーを静止したのは、
「少し診てもらうだけなら、オレと行けば大丈夫だと思います。ちょうど用があって今から中央教会に行こうと思っていたので」
「・・・・・?」
 なんとテオドールの方だった。
 フィーはその意がわからず、口をつぐむしかない。
「あら本当に?」
「はい。オレが連れていくので、リゼーヌさんは大丈夫です」
「そんな、悪いわ」
「いえ、オレも一応顔はききますが、人数が少ない方が入れてもらいやすいと思います」
「そう・・・?」
 勝手に流れていく話に、フィーの頭は大混乱だ。どうしたらいいのか右往左往している内に、腕を組み迷った様子を見せたリゼーヌは、直ぐに「ならお願いしちゃおうかしら」と顔を明るくした。
「フィー」
 呼ばれるままフィーは母の元へ小走りに寄り、数枚の硬貨を両手に手渡される。
ちゃんと挨拶をすること、事情の説明に念を押され、フィーは一つ一つ頷いていく。いつものことだが、テオドールの前でそれをされるとなんだか自分の子供っぽさが際立つようで恥ずかしい。
 そのせいでフィーは、帰路につくリゼーヌをうつむきがちに見送った。
 昨日の嵐が嘘のような晴天の下、残されたのはふたり。
「お前、具合悪いのか?」
「ううん、大丈夫だよ! 本当にお母さんが念のためにってだけだから・・・!」
 つい歯痒くなって顔を上げることが出来ないフィーに、テオドールはいつもと変わらぬ口調で言う。
「なら良かった。だが一応診てもらうか」
「うん!・・・え、え? 本当に診てもらうの?」
 予想だにしなかった答えに、フィーは恥じらいも飛んでその顔を見返してしまった。なんとなく診察というのは嘘で、今すぐセイレーンの所に戻るのかなぁと、途中から思い始めていたので思わず聞き返してしまう。
「ああ。言っただろ用があるって」
「あっならわたしが先にセイレーンの所に・・・・?」
「いや、お前も来た方が良い」
「?」
 いくつかの早合点をして勝手に混乱するフィーの横を、自然と追い越したテオドールは、水溜まりを避けながら振り返った。
「そのセイレーンについて、大事な話を聞きに行くんだ」
「・・・・・?」
 そのまま平然と歩き出し行ってしまう。
 フィーはその意味がわからず首を傾げつつも、小さくなっていく後ろ姿を慌てて小走りに追ったのだった。

このページのトップへ