セイレーン〜novel side.
09.フィーのうた2
それからの数日間は、早朝にまた聖歌隊の練習が終わると直ぐに洞窟に飛んでいく毎日だった。洞窟に踏み入れる度にその姿が見えないのではないかという不安が過ったが、日に日に回復していくセイレーンの姿がそこにはあった。
「セイレーン、今日はパイを持って来たの!」
フィーは少しでも体力を回復してもらえたらと色々なものを用意した。
柔らかい生地に瑞々しい野菜を挟んだサンドイッチ、 果実の沢山入ったお菓子やジュース。自分のお昼やおやつから、持ってこられるものは何でも持ってきた。
セイレーンは最初、人の手が加えられた食べ物は気が進まないようだったが、一つ口にすると黙々と頬張っていたのが印象的だった。
少しずつだが打ち解けていき、話数も増えていった。
「いつもは何を食べてるの?」
「いつも・・・?いつもは、そうだな・・・。口にするといえば、花の蜜や木の実か。しかし基本、あまり食べる事はない」
「えっ食べなくても大丈夫なの?」
「大丈夫と云えば大丈夫だ」
「お腹空かないの?」
「・・・・腹は、空く。しかし歌っていると、自然と膨れてくる」
「歌・・・・?」
「〈エーレ〉か」
「何だ。お前達はその言葉も知っているのか」
大抵は黙ってふたりの話を聞いているテオドールも時折会話に入ってくることがあった。その度にセイレーンが少し目をみはる、というのも定番になりつつある。
「人から教えてもらっただけだが・・・」
「・・・そうか、まだ知っている人間もいるのだな」
「知っている、というのは?」
「・・・古い古い言葉だ。私達の間でも少しずつ廃れてきつつある古代語。それを人間が覚えていることに、驚いた」
そうして初めは警戒心が顕だった表情を綻ばせ、セイレーンはどこか懐かしそうな顔をした。
「あっなら、今セイレーンに歌ってもらって、わたしの〈エーレ〉を食べてもらえれば直ぐによくなるんじゃ・・・・!」
「いや、止めた方が良いな」
「ああ、それは出来ない」
「なんで・・・?」
「セイレーンが歌えば、必ず討伐隊が嗅ぎ付けるだろ。今は全力で警戒網を張ってるだろうから、聖歌以外の反応があれば直ぐにバレる」
「そんな・・・」
心なしか陰りが差したセイレーンの様子を見て、テオドールがその心意を読み取ることにも慣れてきた。
「今日も討伐隊に進展はなさそうだった」
「う、うん! 噂も全然聞かなくなったし、大丈夫だよ!」
「そうか・・・・・・」
二人の言う通り、あれ以来討伐隊に目立った動きはなかった。
もしもセイレーンを〈全滅〉させたとなれば、教会が進んで触れ回り人の口も塞ぐことは出来ないだろう。一方で〈被害〉が出た話も聞かなくなったのも事実だ。
他のセイレーン達もどこかに身を潜めているに違いない。
フィーはセイレーンを励ますように明るく振る舞う。変な気苦労をかけて無理でもしたら、また具合が悪くなってしまうかもしれない。
セイレーンがまたあんなことになったら、フィーは正気ではいられないだろう。
そんな状況だが、討伐隊を警戒しつつもずっとこの閉鎖的な空間にい続けさせる訳にもいかなかった。気を晴らす為にも、一緒に洞窟を出る時もあった。
「・・・今日は波が静かだね」
「ああ」
夕陽が赤く海を染めていく。遠くの空の濃紺に、一番星が輝く。
上からは見つかりにくい浅瀬で、引き潮をぼんやりと眺めていた。
岩間に出来た窪みに海水が溜まり、中に取り残された小魚が泳いでいた。
「・・・ふと、気になることがある」
「なに?」
セイレーンから話を振ってくれるのは稀で、フィーは全身全霊で聞きこうと体ごと横を向いた。対するセイレーンは岩に寄り掛かりながら、伏し目がちに視線を魚にやったままだ。
「・・・魚は不思議だ。水の中でどうやって呼吸をしているのか何を考えて生きているのか、たまにふと考える。同じ理由で虫も、土の中でどう生きているのかが気になる」
遠くを見るように顔を上げたセイレーンは、どこまでも広がる穏やかな海を見渡した。
言葉の意味を掴むのに少々時間が掛かったが、フィーは記憶の中で共鳴するものに気が付いた。
世界の景色が変わったあの瞬間を。
「―――海も風も、歌っている・・・。テオドールが言ってた!みんな〈いのちのうた〉だって!」
「!」
「なら、魚も虫もみんな歌ってるんだよ。ひれで水を掻いたり、手足で土を掘りながら、みんなみんな、今生きてるよって歌ってるの!」
フィーは問いに応えられたような気がして、大輪を咲かせたように顔を明るくした。高揚しながら答え合わせをするように見上げたセイレーンは、目をぱちくりと見開いて言葉を失っていた。
「驚いた。それを知る人間がいるのか。・・・あの子供には驚かされてばかりだ」
「うん! テオドールはすごいのっ」
嬉しそうなフィーを見るセイレーンの表情はとても柔らかく、雛を見守る親鳥のようでもあった。真綿のような空気がふたりの間を包んでいく。
―――フィーとセイレーン。
僅かな時間でも互いの心は確かに近付いていった。
そんなふたりが話すことが多かったが、時にフィーがいないこともあった。
聖歌隊の練習が終わり、日も傾き始めた時刻。
「今日は母親と礼拝の日だから遅れるらしい」
「そうか」
手にした小さなランプを身近な岩の上に置いて、テオドールは自分の鞄を探る。
誰が、と言わなくともセイレーンにはちゃんと通じていた。いつも通りの返答は、しかし心なしか残念そうでもあった。
テオドールは無言のままで、家にあったいくつもの薬草を磨り潰して調合された薬を、自然と差し出された羽の隙間に塗っていく。
傷は大分癒えてきたが素人目に油断するわけにはいかず、知的探求心が疼いて聞きたいことが山程あったが、今はセイレーンの体調が第一と自重していた。
「お前達は違うのだな」
「・・・何が?」
表面上は何も変わらないテオドールは、手を止めることなく聞き返す。
フィーとの対比を見たのだろうか、セイレーンは面白そうに喉で笑った。
「私が今まで見てきたのは、人間の苦痛や憎悪に歪められた顔か、力ない間抜け面ばかりだった。だが、お前達は違った・・・」
脳裏に嫌でも焼き付いて離れない光景。不快感と嫌悪感が助長される。
しかし目の前にいる人間達は、それとは正反対の感情を沸き上がらせる。
・・・心地よさそうな表情をする人の子達。
あの、胸を踊らせ、幸せに満ち足りているような可愛らしい笑顔。
この、一見凍てついた氷のように見える瞳の、その奥に秘められた眩しい程の輝き。
それらはセイレーンの心をも動かして、少しずつ解いていくようだった。
「そういう人間の顔を、私は初めて見たよ」
「・・・・・・」
テオドールは肩越しだったが、日溜まりに微睡むような暖かい表情を垣間見たような気がした。肩越しに綻んだ空気に、何でだかわからないが、とても面映ゆくなって顔を背けてしまう。
「彼奴は特に変、だから・・・な」
「はは、違いない」
あまりにも自然に、セイレーンは笑った。
数日前には全く考えることも出来なかったことだ。
ゆっくりと、それでも確実に色々なものが変わりつつあった。
こうして。
セイレーンとフィー、テオドールの距離がだんだんと近くなっていった。
このローレライの街も日増しに賑わいをみせ、聖フォルトゥナ祭が目前に迫ってきたとある日に。この穏やかで優しい日々は、
「・・・・え?」
唐突に終わりを告げた。
練習前。
いつものように洞窟に立ち寄ったフィーは、立ち尽くして我が目を疑った。
いつもならフィーに気が付いてこちらに向けてくれていた顔はそこにはなかった。代わりのように綺麗に畳まれた布が置いてあるだけで、主はどこにも見当たらない。
フィーは弾かれたように外へ飛び出す。そ知らぬ顔の青空が、笑うような太陽を張り付けていた。叫び、駆ける。いつかの時のように岩場を走り抜けた。しかし、前のように近くにいるわけでもなかった。どこにもいなかった。
セイレーンの姿が、 ―――― 消えた。
「セイ、レーン・・・・・・っ」
両手を膝について肩で息をしながら、フィーは絞り出すように呟いた。
わななく唇をぎゅっと噛み締める。
真っ白になった頭の中に、ここ数日間のセイレーンと過ごした光景が走馬灯のように映り変わっていく。仲良くなれてきたと思ったのは自分の思い込みだったのか、セイレーンの解けてきたあの表情は幻だったのか。
困惑から色々な疑問と悲しみが胸を切迫する。
「―――――っ」
動転した気を落ち着かせる為に無理やり深呼吸をした。眦に滲んだ滴を拭う。
それから、フィーは一目散にそこへ向かった。
―――ガチャッガタバタァアアン!
けたたましい音をたてて、教会の扉は開け放たれた。
何事かと、いくつもの視線がそこに集中する。
「フィーさん?!一体どうしたんですか、厳粛なる聖堂にそんな荒々しく・・・・っ!」
もうマルシアも聖歌隊の皆も、フィー以外はみんな揃っていた。
しかし全員の驚愕や非難の色など目もくれず、フィーは講堂のど真ん中を走り抜ける。
「テオドールっ!」
飛び付くように駆け寄ったのはテオドールの元。壇上の定位置にいたその手を、すがり付くように掴んだ。
「いないの!いないの・・・・・・っ!」
誰が、とは流石のフィーも言わなかったが、一も二もなくテオドールの血相が変わる。
「どういう・・・・」
「わかんないよ! でも辺り中探し回ったけど見つからないの! どこにもいないの!」
半泣きになりながらフィーは頭を振った。耳を疑いながらもテオドールは、直ぐ様フィーの肩を掴む。
「とにかく行くぞ!」
「うん・・・・っ」
「「?!」」
脇目もふらず走り出した二人に、事態についていけないメンバーは口を開けたまま見送った。
「ちょ、あなたたち?! テオドール?! フィー?!」
マルシアのひっくり返った声が講堂を割っても、フィー達は構わずに教会を飛び出す。二人を見送るように、始業合図の鐘が高らかに鳴った。
広場にいる人々の合間をすり抜けて一直線に駆け抜ける。
「いつからだ?!」
「わかんない! わたしがさっき行ったらもういなかったの!」
三つに分かれたメインストリートの内、右手の商店街に入る。昼になり賑わいをみせる通りを必死に走り抜ける。
「洞窟の周りも、海辺も全部見たよ! 他にどこに・・・・」
「とにかく、一度洞窟に戻―――」
「――――?!」
その時。
二人の動作が、同時に止まった。
首筋を一閃が貫いたような感覚。
足を止めて、顔を見合わせた二人は同じ方向を振り向いた。
「あれ・・・・」
「!」
見上げた遠い空の下。いくつもの屋根の先に、カテナ山の峰がうっすらと顔を出している。
二人が目を見はったのはその一角から、まるで竜巻のように大量の鳥達が飛び去っていくのが見えたからだ。
「・・・・・・っ!」
「まさか・・・・・」
フィーとテオドールはもう一度顔を見合わせた。
そして口を開くよりも早く、弾かれたようにカテナ山の方向へ走り出したのだった。