セイレーン〜novel side.
08.フィーのうた1
太陽はすっかり高く登っていた。街は活気に溢れ、人々が忙しなく行き交っている。
市場で目的の物を買い、他にも用を済ませた。一つ外れた道に入ると、もう慣れ親しんだ景色が続く。潮の匂いが頬をすり抜ける。さざ波の音が次第に大きくなっていく。風化した階段を小走りに降りるのは、気が急いているから。
あれが早朝の出来事だったとは思えなかった。もう何日も経っているかのような錯覚を覚えながら、一段ずつ飛ばして下っていく。
人気のない浜辺を通り抜け、覚束ない岩場も難なく進むことが出来た。
ただその場所を、目指す。
高く聳える岸壁。岩影の向こうに見えてきたのは、ぽっかりと口を開けた―─―小さな洞窟。
「はぁ、はぁ、・・・・」
少し切れてしまった息を整えながら、フィーは胸に当てた手を握り締めた。
鼓動が大きい。嫌でも緊張が走る。
昨日は思わぬタイミングで訳もわからない状態だったが、改めて意識すると物凄いことだ。
―――あのセイレーンに会うことが出来た。
今、目の前の洞窟にその存在はいる。高揚と不安がない交ぜになり、胸をせめぎあう。
一つ、フィーは深呼吸をすると意を決して中に踏み入れた。
そして、
「え・・・・・・?」
目を疑った。
瞳の鮮やかな水色が困惑に鈍る。
洞窟の内部は、昨日の悪天とは違い陽の光が差し込んでよく見えた。
足元に出来た水溜まりに、天井を伝った雫が落ちて高く跳ねる。それは遮蔽物のない洞窟に、静かに響き渡った。
「いな、い・・・」
「どうしたんだ?」
遅れて到着したテオドールが顔を覗かせる。そして、目の当たりにした光景に、フィーと同じように我が目を疑った。
ひんやりとした空洞。
凹凸もあるが比較的平らな部分が占めている。その奥には昨晩、フィーとテオドールがセイレーンにかけた衣服が落ちているだけだった。
あとはもぬけの殻。
―――まるで幻であったかのように、その姿は消え失せていた。
瞬きを何度しても、見えるものに変わりはなかった。
「・・うそ・・・」
動ける状態ではなかった筈だ。にもかかわらず、ここにいない。
頭の中が一気に沸騰した、衝動だけが脳を支配する。
目を剥くテオドールを半ば押し退けるように、フィーは洞窟を飛び出した。
「―――セイレーン! セイレーン!」
白昼にも構わず、叫ぶ。
・・・ぜんぶ幻だった? 夢を見てただけなの?!
混乱は頂点に達し、ただただ絶叫するように名を呼ぶ。
応えるのは、岩にぶつかり泡立つ波間だけだった。
宛もなく岩場の更に奥へと向かう。両手を付きながらでないと進めない危ない場所にも関わらず、恐怖を覚えることもなかった。背後からテオドールの制止がかかってもフィーは止まらない。
「―――セイレーン! セイレーン! セイレーン・・・・っ!」
母を呼ぶ幼子のように、喉が張り裂けそうになる位叫んだ。潰れてしまっても良いとさえ思った。
だが、返事はない。渾身の力を込めて叫ぶ。返事はない。また、叫ぶ。返事は、ない。何度も何度もそれを繰り返して、そして。
「セイレー・・・、?!」
輪郭がボヤけていく滲んだ視界の片隅。波打ち際の白に、違うものが漂っているのをとらえた。
「羽・・・!」
瞬きをして舞い散った涙が、光を受けて輝く。
羽根はまるで道標のように水面に浮かび、また一つまた一つと続いていた。
フィーは淡い希望の一筋を手繰るように、辿っていく。
一際大きな岩をすり抜けたそこには、
「・・・っ」
あの時のデジャヴのように、――――魔性セイレーンは岩にもたれ掛かるようにして、倒れていた。
「セイレーン・・・っ!」
「・・・・・・」
青白い唇、苦しそうに歪んだ表情。両翼は力なく折れ、半分が海に沈んでいた。
フィーは後ろから持ち上げるように、抱き締める。
「セイレーン! 大丈夫?! しっかりして・・・っ!」
触れた肌は氷のように凍てつき、微かに震えていなければもう死んでいると思っただろう。
「セイレーン! セイレーン!!」
フィーは悲鳴のように呼び続ける。
自分の体重を利用して後ろに倒れ込みながら、一気に引き上げる。
春先の海水は冷たかったが、昨日の夜よりはまだ温かった。 翼の中にまで入り込んでいた水がスカートの色を濃く変えていく。泣きべそを掻きながら、フィーはセイレーンを力強く抱き抱えた。つややかなその髪に顔を埋める。
「セイレーン・・・・・・!」
フィーの瞳からは涙が伝い、セイレーンの頬へと優しく落ちた。
それがまるで合図だったかのように、羽毛のような睫毛を震わせ、――――瞼が薄く、開く。
「・・・・・・・・」
「セイレーン・・!」
焦点があっていない眼が覗いた。
目前のそれは逆さまのフィーを映し出した、透き通た花弁のような菫色。
思わず魅入ってしまったフィーは、驚いたように身動ぎをしたセイレーンに我に返る。
「大丈夫! 大丈夫だよ? あなたを助けたいの!」
「・・・・・・っ」
もう抵抗する力もないのか、上体を起こそうとするも指先程度しか動けていなかった。それでも激痛が走ったように顔を歪めるセイレーンに、フィーも悲痛な面持ちになる。
「動いちゃダメだよ!・・・そうだ、わたしの〈エーレ〉を使って回復して・・・・っ!」
「・・・・・・!」
フィーは咄嗟にマグドアから聞いた話を思い出した。そもそも〈エーレ〉という言葉が通じるのかも分からなかったが、懇願するようにその腕を掴むと、セイレーンの目が一瞬見開かれフィーをとらえる。
セイレーンが〈エーレ〉を食べて生きているなら、それを摂取すれば回復出来るのではないかという思い付きは、しかしセイレーンの唇が微かに震えただけで、実行されることはなかった。
もう指一本動かすのも困難な程、弱りきっているのだ。だが他に思い当たる方法はなかった。この、今まさに零れ落ちていく命の砂時計を止める成す術は、ない。
フィーにはセイレーンを抱き締めることしか、出来ない。
「セイレーン・っ!」
「――大丈夫か?!」
「・・テオ、ドール・・・っ」
真っ白になった意識に呼び掛けてきたのは、一筋の光のような声音。振り返ったフィーは、その姿に安堵を覚えた。
「・・テオ、ドール・・・っ!セイレーンが、セイレーンがこのままじゃ、また・・・っ」
「・・・・・っ」
虚ろな瞳になっていくセイレーン。泣きじゃくりながらそれを抱き締めるフィー。
目を見開いたテオドールはふたりを交互に見た後、珍しく口にしようかしまいか躊躇う素振りを見せながら、呟くように提案した。
「・・・歌を、唄ってみたらどうだ?」
「・・・う、た?」
「ああ。昨日唄った歌をまた、・・・唄うんだ」
「・・・・・・?」
思いがけないテオドールの助言に、フィーは首を傾げずにはいられなかった。
どうして今この状況で〈歌〉なのか、全く理解出来ずにテオドールを見返してしまう。しかしその顔は真剣そのもので、
「わ、・・・わかった」
少し戸惑いながらもフィーは涙を拭った。深呼吸をして、痙攣していた喉をゆっくりと広げて、唄い出す。
―――歌が、響く。
寄せては返す波間の子守唄のように。漂うメロディは、波紋を描きながら、優しく広がっていく。
潮風が撫でるように通り抜け、ふたりを包むように世界が凪いだ気がした。
やがて、
初めは掠れていた声音も安定してきた頃、・・・セイレーンの眼がしっかりと、見開かれる。
「・・・っ!セイレーン!」
「・・・・・・・」
紫紺の空の色を映したような瞳が、瞬きを繰り返す。浅かった呼吸は酸素を求めるように深くなり、頬は微かに赤味がさした気がした。
フィーは言葉にならず、口元を震わせる。
セイレーンはただただ自分の頬にぽたぽた落ちてくる雫を、不思議そうに見上げていた。
―――ひとりの少女とセイレーンのふたり。
その光景を、テオドールは何か尊いものを目の当たりにするように、見つめていたのだった。
おぞましく、内腑を掻き回される吐き気。
天地が逆転し、世界が牙を剥くような錯覚。
憎悪に塗られた表情、あるいは何ものも映さない無表情。
だがそれは、少しずつ涙に濡れた少女に変容していく。
・・・・・・・・・・・・・・。
気を許したのは、あの手のぬくもりと同じだったから。
呼び掛けてきた声音が、あの時のものと同じだったから。
儚く頼りない、しかし芯が秘められた歌。
今はただ、起こりゆく──奇跡──に身を任せるしか、出来ない。
―――昨日のデジャヴのような光景。
セイレーンが意識を取り戻すと、いつまでも海に浸かっているわけにもいかず人目のこともあり、フィー達は元いた洞窟へと戻った。
驚いたのは、昨晩のようにフィーとテオドールが抱え上げるだけでなく、なんとセイレーン自身もその枝葉のような足を動かし歩こうとしてくれたのだ。
「・・・・・・」
明確な意思で、フィー達と一緒に来ようとしてくれている。
それがどんな理由からかはわからなかったが、フィーの胸は嬉しさに満ち溢れた。互いの吐息までわかる近さに今更ながら緊張を覚えつつ、無事に洞窟へと辿りついたのだった。
「あのね、わたしはフィーって言うの。彼はテオドール」
昨日と同じ場所に横たわるセイレーンは、虚空の一点を見つめて動かない。フィーは改めて動揺しながらも、精一杯自分達に害意はないことを伝える。
「どこか痛む・・・?苦しく、ない・・・?」
「・・・・・・・」
警戒を解いてもらいたい一心で、フィーは話し掛けるのをやめない。
「知らないと思うけど・・・、わたし貴女をこの海辺で見たことがあるの。とても、とても綺麗だった・・・。あなたを初めて見た時、わたし本当に感動したの!・・・・だからお願い、あなたを助ける方法を教えて欲しいの!」
正座をしたフィーは前のめりになって必死に言葉を連ねる。
聞いているのかいないのか、セイレーンは一度も瞬きもすることなく、まるで凍てついてしまったように動かない。
そんな様子にとうとうフィーがしょんぼりしてうつ向いてしまった時、「そもそも・・・・」と、腕を組んで壁に寄り掛かったテオドールが、眉を寄せて大前提を投げ掛ける。
「セイレーンは人の言葉がわかるのか?」
「あっ」
「・・・・戯、け」
「「?!」」
テオドールの問いに答えたのは、なんとセイレーン自身だった。
思わぬところからの返答に、二人は驚きのあまり目を剥いてしまう。
「言葉が人、だけのものと、思う、など、・・傲慢、甚だしい・・・」
「・・・・セイレーン!」
掠れていたが、耳に心地よい落ち着いた声音。
辛そうに顔を歪めながらも首を巡らせたセイレーンに、フィーは思わず飛び付いてしまった。確かに合った目と目に、フィーはまた涙ぐむ。
「あまり、しがみつくな・・・・。障る」
「ご、ごめんなさい・・・・!」
慌てて体を起こし、両手を胸の前で組んだ。鼓動が大きく跳び跳ねるのが分かる。実際に答えがあると、どうしていいかわからなくなりふためいてしまったフィーを、セイレーンはじっと見つめる。
「歌を・・・」
「?」
「歌を、聴きたい・・・・・・」
その呟きはあまりにも微かで、聞き間違えたかと思う程だった。
一声を発する度に命を溢すように、弱々しく。
「う、た・・・・?」
「ああ。お前の、歌を・・・聴かせよ」
「・・・・・・・」
儚くとも、しんと体に染み渡るような声音が届く。
真っ直ぐに見据えられた瞳は、あの夜空を映したような深い藍色。その奥には、いのちの光を明滅させるような瞬きを抱いていた。
灯火を頂くように、フィーは瞼を閉じる。
ゆっくりと、息を吸った。
「遠いあの日――――」
ありったけの心を込めて、フィーは歌う。
会いたくて会いたくてやまなかったセイレーンを、こうして目の前にして。
羨望、恋慕、畏怖、感謝・・・・・・。
色々な気持ちを織り成しながら、フィーは歌い続ける。
やがて安心したように静かに眠りに落ちていくセイレーンを見守りながら。子守唄は途切れることなく、優しく紡がれていった。