HOMENOVEL

セイレーン〜novel side.

03.女神の御子2


 ―――夕刻。
 少しずつ色を移していく空と海を眺めながら、フィーはぼんやりと座っていた。
 ・・・会いたい。
 その気持ちだけが胸を締め付ける。
 朝、あの話を聞いてからずっとこの場所にいた。セイレーンを初めて見たこの場所に。
 聖歌隊の練習も行かずこの岩場に座り続け、あの美しい羽をはためかせながら、もしかしたら舞い降りてきてくれるのではないかという淡い期待だけを胸に、待ち続けた。
 セイレーンが女神に相反する存在にはどうしても思えなかった。それどころか、教会に飾られている女神の像以上に輝きを増して見えた。既にそれが惑わされているのだとしても、全く構わないとさえ思った。
 ただもう一度その姿を見て、歌を聴ければそれだけで天にも昇る心地だろう。時間さえも意味をなくし、その切望だけがフィーの世界に存在していた。
 夜の帳が落ちる。次第に深まる漆黒、瞬き出す星々―――まるで、あの夜と同じように。
「セイレーン・・・・」
 押さえきれなかった。
 歌いかければ、どこからか応えてくれるような気がした。たとえ届かなくとも、この想いを伝えたかった。止められるものなど、何もなかった。ただ感情の赴くままに、フィーは唄いだす。

「―――Aah・・・
 ―――遠いあの日、星降る夜。静寂に響く歌声
 ―――海の色に照らされて貴女はいた
 ―――人ならざる羽、美しい瞳
 ―――紺碧の空へと舞う姿、その全てに見とれた・・・・」

 あれから何度もセイレーンのメロディを模しているうちに、いつしか溢れる想いが詞になり、それは歌になっていた。最初の旋律とは既に変わってしまっていたが、セイレーンへの想いは変わらない。
 今まで聖歌を歌うことしかなかったフィーの、初めての感覚。新しい歌が、殻を割り空へ羽ばたこうとする雛鳥のように産声を上げる。

「―――セイレーン、貴女に会いたい
 ―――セイレーン、歌を聴かせて
 ―――セイレーン、その翼に触れたいの
 ―――どうか・・・・」

 激情が渦巻く。
 灼熱の炎が胸を焼くように苦しい。
 しかし激しい想いを秘めたその歌は、虚しく夜に響くだけだった。
 ・・・どうして、来てくれないの・・?
 届かない。わかってはいたが、切なさが胸を切迫する。
 穏やかな波の音が心を慰めるようにささめいても、物悲しいだけだった。
 募る、恋情。想いは止めどなく溢れてくる。
 フィーの瞳が潤んだ。
 それは淡い月の光を帯びて、まるで星のように瞬く。
「セイレーン・・・会いたい・・」
 とうとう頬を伝った涙と共に、呟きが零れ落ちた―――その時。
「・・・・・!」
 ふぁさり、と背後に気配を感じた。
 フィーの瞳が見開かれる。花びらのように散った雫が、宙を舞った。
 鼓動が今までにないくらい脈打つ。不安と期待が織り混ざり、世界が止まってしまったように長く感じられた。
 音のした方向を振り返る。
 背面に広がる崖、遠くに灯る街明かり。岩礁の下を寄せては返す波。その狭間。
 フィーはそこに、――――信じられない者を見た。

「テオドール・・・・!」

 息を呑んだ
 見間違えだと思った。
 しかし、凍てつく夜の森を閉じ込めたような瞳、月のように凜と冴える相貌。色の薄い髪が闇の中でぼんやりと揺れ、羽織ったジャケットが風にはためく。そのどれをとっても、見慣れた彼の姿だった。 「・・・・・・」
 テオドールは無言でフィーを見据える。聖堂で気づくと向けられていた、明鏡止水の眼差しと同じ。
 フィーは硬直する。セイレーンに会いたくて唄った歌が招いたのは、会いたくてやまないセイレーンではなく、――― 一人の少年だった。
「どうして、ここに・・・・」
 そう、尋ねるのが精一杯だった。
 あまりにも微かで、風に掻き消されてしまったかと思ったが、テオドールの彫像のような口元がゆっくりと動いた。
「ずっとつけていた」
「・・・・・・・?」
 意味がわからず、眉を寄せる。
 警戒の色を高めるフィーに対して、テオドールの表情は一切変わらない。
「オレは、セイレーンにあてられた人間を何度か見たことがある。最近のお前がそれに酷似していたから、様子を見ていたんだ」
「!」
 間髪入れず核心を突いてきたテオドールに、フィーの心臓は鷲掴まれたように縮んだ。全身から血の気が引いたように冷たくなっていく。
 ―――全てバレていた?
 魔性であるセイレーンへの気持ちも、更に聖歌ではない〈歌〉を唄っていた所まで十中八九見られてしまったのだろう。教会の聖職者以外が楽曲を作ってはいけないという戒め。それを破った場合、間違いなく〈断罪〉の対象にされてしまう。
〈断罪〉とは教会の定めを破ったものに与えられる罰だ。実際に何をされるのかはわからなかったが、恐ろしさだけは小さい頃から何度も教えられてきた。
 動揺が極限に達して、フィーの頭の中は真っ白になった。
 体が言うことをきかない。口を動かそうとしても戦慄くだけで、言葉にならなかった。
 何か言い訳の一つでも言えれば、この状況を好転させる事が出来るのだろうか。しかし、今のフィーの思考は完全に凍結してしまい、何も対処することが出来なかった。
「お前は、セイレーンの歌を聞いたのか?」
「・・・・・っ」
 その間にも重ねられたテオドールの質問に、フィーが答えられる筈もなかった。
 だから、持てる力の全てを掻き集めて絞り出せたのはただ一言だけ。
「何の、こと・・・?」
 こんなに動揺しているのに無理もあったが、とにかく、そんな言葉しか出てこなかった。
 テオドールはそこで、ああと何か納得したように口を開く。
「心配しなくて良い。オレは別に、お前を教会に突き出そうとか考えている訳じゃない」
「・・・・・?」
 最初、何を言われているのか理解が追い付かなかった。ただ、より一層意味が分からなくなってしまったのが事実だ。
「どういう、こと・・・?」
 さっきよりも自然と、フィーの口からそれは出てきた。
訝しむフィーとは対照的に、テオドールは何ということでもないように、驚くべきことを告げてきた。
「オレは、セイレーンに会いたいんだ」
「?!」
 間髪入れず返ってきた答えに、フィーはもう硬直するしかなかった。
 二人の間に落ちた沈黙を埋めるのは、規則正しい波音。
 ・・・セイレーンに会う? 何で、どうして?
 混乱がピークに達した。思考が渦を巻き氾濫する。容量を超え固まってしまったフィーに、テオドールはその当然の疑問に答えるように、自ら語りだした。
「セイレーンの歌は聴いた者を必ず虜にするという。誰をも魅了してやまない歌、それがどんなものか、この耳で聞いてみたかった」
 テオドールの眼差しが、微かに揺れる。
 フィーは、自分の耳を疑わずにはいられなかった。
 あの『女神の寵愛を受けた御子』に相応しいと称される、教会の申し子のような少年が、その教義と相反することを望んでいる。その事実は余りにも衝撃的で、フィーの根底を覆すものだった。
「なん、で・・・? だってテオドールは教会の、女神様の───」
「違う」
 ぴしゃりと、今までにない強い口調でテオドールは言葉を遮る。それから視線をフィーから外すと、どこか諦観したような眼差しで、暮れ残る空を見上げた。 
「皆がオレの歌を褒め称える。女神フォルトゥナに愛された御子だと謳う。だが、オレが歌ったところで、・・・教会の聖歌をいくら歌ったところで、セイレーンのように誰かをそこまで魅了する事は出来ない。───今の、歌の力ではその程度なんだろうな」
「・・・・・・?」
「正直、女神の御子とか、そんな事はどうでも良いんだ。オレは、歌っている時だけが楽しい。生きていると実感出来る。他の時はどうでもいい」
 ・・・だから歌が全てなんだと、そう語るテオドールの瞳には、いつもとは違う熱い炎のような光が揺らめいていた。
 フィーは瞬きもせずに見つめ、引き込まれていた。
『女神の御子』に一番近いと称えられる少年が切望していたのは、フィーと同じ――魔性の者。
「セイレーンの歌に、純粋に興味がある。オレもそんな歌を聞いてみたい。だから、会いたいんだ」
「・・・・・・」
 少しだけ綻んだようなテオドールの表情に、フィーはしかし固唾を呑む。次の返事を一つするのにも長い長い、無言の時を要した。ただテオドールの一心が不思議と伝わってきて。それがゆっくりと、フィーの警戒を解いていく。
「本当に、会いたい、の・・・?」
「ああ。お前は会ったんだろう?」
 自分でも驚くくらい素直に、フィーは頷いた。
「魔性、なのに・・・・?」
「関係ない」
 有無を言わさぬ力強い声音に、フィーはむしろ安堵感を覚えた。
 胸中では嫌な考えが浮かんだりもしたが、それを吹き飛ばすだけの説得力がその面差しからは伝わってくる。
「ここで、セイレーンと会ったのか?」
「・・・そう、だよ。でもその、会ったというよりもただ姿を見た、歌を聴いただけなんだけど・・・」
 テオドールは周囲を見渡し、陰りを増した崖下に目を凝らす。それから輝き始めた月と街明かりを見上げた。
 フィーは自分からテオドールの視線が外れたことで、思わず力が抜けるのを感じた。深く息を吸うことで、鼓動も少しずつ落ち着いてくる。
「ここなら、セイレーンに気づかれることもないか。───座るぞ」
「う、うん・・・」
 そのまま岩の上に腰を下ろしたテオドールにつられて、フィーも座り込んだ。人一人分の距離を置いて、ふたりは並んで海辺の夜を眺める。
 上空では薄い雲が風に流されていき、足元では波がちゃぷちゃぷと音を上げる。少しずつ位置を変えていく月に映ろう影が、まるで生きているように動いていく。その時間が、フィーには一人の時よりもとてもとても長く感じられた。
「───お前はどう思う?」
「な、にが・・?」
 徐に尋ねられ、フィーはまだ少しビクついた。まだ今の状況が信じられず、動揺は収まってはいなかった。恐る恐る隣にある横顔を盗み見たが、テオドールは構わずに前を見据えたまま話出す。
「歌は、教会の聖楽団しか作ってはいけない決まりになっているだろ? だが、―――全ての生き物は〈歌〉を歌う。海も、空も、大地も。この世界にあるあらゆるものが、〈歌〉を奏でる。今こうしている間にも、聴こえてくる全ての音色が生きている音、〈いのちのうた〉だ」
 突然の話にフィーは瞬きを繰り返したが、真剣なテオドールの様子に引き込まれるように考え始める。周囲に耳を澄ませば確かに、岩に当たる波音も風に吹かれる木々のざわめきも色々な音を奏で、まるで自分達も生きていると歌っているようだった。
「・・いのちの、うた・・・」
 その表現がしっくりきて、思わず呟いたフィーにテオドールは強く頷いた。しかし、遠くを真っ直ぐ見ていたその眼差しに僅かな陰りが帯びる。苦しそうに、眉をひそめた。
「―――にもかかわらず、なぜ人だけが、人だけが自由に歌ってはいけないんだ? おかしいと思わないか?・・・教会の聖歌は確かに美しい。だが言ってしまえばそれだけだ。どこまでも計算されていて、何か堅苦しい気がしてならないんだ」
「・・・っ・・」
 直後、いきなり首を曲げたテオドールの瞳と、フィーのそれとが重なった。新緑と紺碧の瞳に、互いが映り込む程の至近距離。
 いつもだったらあまりの近さに驚いて飛び退いてしまっただろう。だが今は、それよりももっと大きい衝撃にごまかされていた。
 ・・・今まで、考えたこともなかった。
 フィーはそう、愕然となっていた。
 理由はただ一つ。教会の定めた聖歌に疑問を抱くことなど、生まれてから一度もなかったのだ。人々が歌うのは、女神に与えられた聖歌のみ。それ以外に民が自ら歌を作るなどということは、魔の産物であると禁じられてきた。
 歌えば魔性にとりつかれ、人間には二度と戻れないと幼い頃から散々と言い聞かされてきた。
 だから、さっきフィー自身が唄った歌などその最たるものだろう。またセイレーンに会えるならばどうなっても良いと思った。その一方で、小さいころから馴染んできた教えに逆らうという罪悪感があったのも事実だ。
 しかしその根底を揺るがす問いを、テオドールは投げ掛けてきた。
 ―――赦しを得たような、不思議な感覚。
 言葉を失ったフィーをテオドールはしっかりと見つめ続けながら、迷わず言った。
「オレは、さっきのお前の歌は良かったと思う」
「!」
「いつも、練習で止められているような歌い方とは違う。お前が心の底から歌いたいと思って、歌った歌だ」
 フィーの鼓動が、跳ねる。目が見開かれる。
 世界が少しずつ、変わっていく。
「この聖歌隊の前にも、一度だけお前の歌を聴いたことがある。教会のミサで。あの時は楽しくて歌ってたんだろう? だが、今は上手く歌うことしか考えていない」
 図星をつかれ、フィーは押し黙った。
 色を変えていた世界がまた褪せようとした。
 けれど、
「お前が聴くべきは何だ? 他人の歌か? 違うだろう。お前の内にあるもの。それを聴いて、歌うんだ。後は流れる音楽に乗せて、自由に歌えばいい。今みたいに」
「・・・・・・!」
 間近で覗いた、深い森の奥に眠る宝石のような瞳に、フィーは完全に吸い込まれた。そこには天に瞬く星々よりも強い輝きを放つ光が揺らめく。
 ―――初めてセイレーンに会った時のような、衝撃。
 魂の根幹を揺さぶられるような、激動。
 そして、希望。
 色とりどりの星と月が輝く夜空の下、二つの影がくり貫かれたように浮かび上がる海辺。
 その日、ふたりの元へセイレーンが現れることはなかった。
 だが、運命の歯車は確かに音を立て始めたのだった。

このページのトップへ