el ma Riu Fantasy02.~ラ・エルディアーレ~シリーズ

第二楽章~ハルピュイア~

───これは、とある王女とハルピュイアの物語。

プロローグ

 ―――少女が、歌いだした。
 それは今までに聴いたことがない“うた”だった。
 生まれた時から数千という楽曲に囲まれてきた自分にとって、それは未知の領域。否、知ることを許されない禁忌だった。
 それが今、目の前で現実に紡がれていく。
 たった一つの旋律から、とてつもなく深い想いが溢れてくるのがわかる。
 恐怖、畏怖、緊張、高揚・・・
 挙げきれない感情の渦に呑み込まれていく。
 まるで“いのち”そのものが揺さぶられるような衝撃。人生観を覆す、運命的な出会い。
「……………」
 少女の姿が神々しく輝く。
 ―――世界が変わる。そう直感した。
 凡てを優しく包み込む光が周囲を満たしていく。
 動くことなど出来はしなかった。
瞬きも忘れてその光景に魅いり、ただただ、その旋律に、心地よい余韻に身を委ねた。
 数日経った今でも、思い出すだけで身震いがする。
 決して忘れることの出来ない、………出会い。


        ♪  ・  ♪  ・  ♪


 幾重にもなる城壁、王の城を守る要塞。その合間を縫うように城下町は円を描き広がっていた。煉瓦で統一された建物に、均一性の取れた街並み。
 ―――神聖ハプスベルグリア王国、王都カルメン。
 王国を五つにわけた大教区の中心に位置するそこは、まさに国の心臓部だ。
 城を基点にして裾のを広げるように建設された都市。
 中枢を担う地区には幾つもの塔が聳え立っていた。その内の一つに、三つの尖端を頂く白亜のそれがある。
 幾つもの窓が並ぶそこから、外を見つめる人影があった。
「………………」
 豪華な装飾の施された椅子に浅く腰掛けている。ぼんやりと眼下に広がる街を見渡していた視線を室内へと戻した。
 僅かな動作に揺れた前髪はブロンド。腰に届く長い髪の一部は後頭部に編み込み束ねてあった。
 手を乗せたテーブルから震動が伝わり、今しがたメイドが入れた湯気の立つ紅茶が波打つ。 立ち上る芳しい香りが鼻腔を擽った。  三段のケーキスタンドにはそれぞれ、マカロンやキッシュ、クッキーサンドなどのデザートプレートが乗っていた。艶々と光るそれらにはまだ一つも手が付けられてはいない。
「―――以上が楽団からの報告になります」
 そう言って目の前にいる白いローブを纏った女性が手にしたノートを閉じる。神経質そうな目元に薄いリップの塗られた唇、控えめな化粧に眼鏡をかけた彼女はストレートの黒髪を揺らし恭しく頭を垂れた。
「報告感謝します」
 当然のように頷き、ティーカップを口元に運んだのは、彼女よりも一回り以上歳が若い娘だった。
 身に纏う薄い桃色のドレスには緻密な刺繍が施され、たっぷりとしたレースが足回りを華やかに飾る。すらりと伸ばされた背筋は気品に溢れ、その利発そうな面立ちを強調していた。
 長い睫毛の下で潤むのは果実のようなルビー色の瞳。ほんのりと紅く染まる頬と相まって、彼女の瑞々しさを際立たせた。
 まだ少し幼さを残すも美しいという表現がしっくりくる美貌。
 ――――その持ち主たる者の名は、ユリスティーナ・ハプスベルグ。
 王国の由来となる名を冠する、正真正銘この国の王女だ。
「……………」
 ユリスティーナは人形のように整った顔が映り込む紅茶の水面を見つめる。瞬きを一度してから、ソーサーにカップを戻した。
「ですがいくつか質問が。今年の聖フォルトゥナ祭はエルドニア区ではありませんでしたか?」
 視線をくべた先は、前に座る女性ではなくその後方。
 普通なら扉で区切られていてもおかしくない広さの部屋にある入り口の一つ。金細工の装飾が散りばめられた二枚扉の前に控える、ロングスカートのメイド服を着た女性だった。
 確認を受けた彼女は迷うことなく頷いた。
 ヘッドドレスの下からは癖のある髪が肩上でうねり、少し垂れたまな尻が醸し出す雰囲気を柔らかくしている。実年齢よりも確実に若く見られる面立ちだったが、しっかりとした安定感を持ち合わせていた。
 彼女はユリスティーナの従者、ファナ。齢二十九にして王女の筆頭従者を勤める凄腕のメイドだった。
 ユリスティーナは信頼のおける彼女のリアクションに自らの記憶が正しいことを再認識した。
 それを踏まえて今しがたの報告の記憶を辿り始める。
 ――――聖フォルトゥナ祭はこのハプスベルグリア王国の一大祭だ。
 女神フォルトゥナを信仰するこの国においてその主神を祝う祭礼。
 毎年各地で盛大に催し物が開かれ、国内外の人々が行き交う。
 王都と五つの教区から構成されるハプスベルグリアでは、毎年祭りのメインとなる教区が定められていた。国の活性化から行われるそれは、北の第一教区ルーヘスから時計回りに変わる仕組みだ。
 昨年はちょうどルーヘスだった為、順番に行けば次は北東のダルミアトだ。しかし、先の報告で上がった名は一つ飛ばした先のエルドニア教区だった。
 相当の理由がない限りあまり例のない事態に、報告ミスが真っ先に浮かんだのだが、ユリスティーナの指摘を受けても、教会の報告者トレアの表情が変わることはなかった。
「はい。この度はその件で伺った次第です」
 定例の会議以外、教会とのやりとりはいつもならファナを通して行われる。それが今回、教会の関係者が直々に伺いたいとの打診があったのだ。
王女としてのいつものスケジュールをこなしつつ合間を縫いもうけられたこの時間の意図がようやく明らかになる。
「聞きましょう」
「ありがとうございます」
 トレアはにっこりと笑って、自身の黒髪がテーブルに触れるまで頭を下げた。出された紅茶や菓子類にはもちろん手をつけず、淡々と話が進められていく。
「この度、次回の定例会で特別議題が上がることとなりました。内容は半年後に行われる聖フォルトゥナ祭、その開催場所についてです」
「特別議題………」
「はい。今年のフォルトゥナ祭開催区は順当にいけばダルミアト教区でしたが、それをエルドニアに変更するというものです」
「何故また?」
「はい。この先、我々グレゴリオ聖楽団の未来を左右する重要な事柄がある為です」
「………………」
 もったいつけるような表現に、ユリスティーナの目が僅かに細められた。
 それに対してもトレアは微笑みを崩すことがない。
「次なる“女神の御子”を見定める為」
「!」
「といえばお分かり頂けますでしょうか?」
 顔色が変わったのはユリスティーナの方だった。膝の腕で重ねた手のひらがぴくりと反応する。
 控えのファナの顔つきも険しくなり、部屋の空気が一変した。
 ただ一人、笑みを張り付けたトレアだけが平然としている。
「これには現御子姫であらせられますユリスティーナ王女にも深い関係がありますので、定例会議よりも先にお知らせさせて頂いた次第です」
「……………」
「ユリスティーナ様は、エルドニア教区にあるローレライという街をご存知ですか?」
 どこまでもにこやかなトレアに対して、ユリスティーナは警戒心を高めつつも答えるしかない。
「聞いたことはあります。セレーナ海に面した港町だと記憶しています」
「そうです。その港町が今度の聖フォルトゥナ祭の開催地となります」
 既に断定された物言いだったが話の腰を折るわけにもいかなかった。ユリスティーナは先を促すしか出来ない。
「ローレライの街はエルドニア教区でも有数の街になります。古くは貴族の居城があり、そこを中心として栄えました。主に漁業が盛んですが、北に広がるカテナ山を中心に林業も行われております。賑やかですが趣のある落ち着いた街並みとの報告が上がっています。観光地としては涙岬があるようですね」
 まるで書物でも読み上げるように次々と情報が伝えられる。
 王都から滅多に出ることのないユリスティーナにとっては、まだ見ぬ地の話は心踊るものがある。今この状況でなかったなら、素直に楽しみ色々な質問までしたかもしれない。
 だが、今は違う。
「ローレライの街についてはだいたいわかりました。それで? その街にしたい理由は何ですか?」
 なかなか本題に入らないトレアに対して焦燥感がじわりと滲み出してくる。
「はい」
 涼しげな返事がまるで別のもののように聞こえてくる。
 目の前に座る楽団員が、仮面をつけた他のものように映る。
 鼓動が無意識に早鐘を打つ。
 唇の動きがやけにスローモーションに見えた。
「―――ローレライの街、そこに百年に一人の逸材とうたわれる歌い手がいるのです。名前はテオドール。今年十三になる少年です」
「……………」
 直ぐには反応することが出来なかった。
 やはりきたか、そう思わずにはいられなかった。
 ―――女神の御子。
 神聖ハプスベルグリア王国の主神、女神フォルトゥナに最も愛されたと謳われる御子。当代きっての歌い手が国中の子供たちから選出され、ただ一人に定められる称号。
 それに選ばれることは大変栄誉なことであり誇りだ。
 だが、今回はあまりにも。
「十三の少年、ですか」
「そうです。ギリギリですが十分かと」
 十分。
 その言葉は酷く冷たく、鉛玉のようにユリスティーナの胸のうちに沈んだ。
 思考が渦を巻き、言葉にしようと思ってもうまく掬うことが出来ない。
やっとの思いでかき集めた言葉をつっかえつつも伝える。
「……他に、他に候補はいないのかしら? エルドニアならもっと大きな街が他にもある筈です。人材には事欠かないと思いますが」
 ずっと王都にいるとはいえ、噂くらいは耳にすることもあった。名だたる歌い手の話はユリスティーナにも伝わってくる。
 最近聞いた新しい情報によれば、レフスの街に住む十代初めの少女が有名という話だった。天使の歌声と絶賛されるそれは楽団の中でも話題になっているらしい。
「レフスの娘は候補にはあがりましたが、テオドールの方が勝ります」
「決めつけるのは早急ではありませんか?」
「いえ。集めた情報から総合的に判断して後者に軍配が上がります」
「……………」
 取りつく島もない断定ぶりだった。
 これではユリスティーナが他の話をだしても同じ結果になるだろう。そこには単なる実力の差ではなく何らかの事情が絡んでいるのは明らかだった。
 女神の御子の選定は、本来何の裏もあってはならない。だが、実際は権力や誰かの思惑が絡んでいるというのが悲しいが現実であることをユリスティーナは身をもって知っている。
「わかりました。……では、そのテオドールがエルドニア区の候補者であると」
「そうなります」
 白々と言ってのけるトレアにユリスティーナは言い募ることは出来なかった。
 気持ちを落ち着かせる為に紅茶へと手を伸ばす。まだ温かいそれがまだ時間がそれ程経っていないことを示していたが、さっきとは比較にならない位、内心は変わっていた。
 ユリスティーナが紅茶を飲み干すのをトレアは静かに待っていた。
 遠くに控えていたメイドが隙をみてティーカップに紅茶を注ぐのを待ってから話を再開する。
「では次のフォルトゥナ祭で召し上げにいくということですね」
「そうなります」
 トレアは話の初めから微動だにしない。それは出されたお茶に手を出さないだけでなく話の姿勢もそうだ。
「なぜそこまでする必要が? フォルトゥナ祭の開催地を変えずとも、聖楽団の使者を送れば良いはずでは?」
「それが彼は特殊なのです。ここ数年、何度も打診を送ってはいるのですが全て跳ね除けられている、という状況です」
「大聖楽団の打診を断る?!」
「はい」
 ユリスティーナは思わず声を大きくしてしまい、小さく咳払いした。
 グレゴリオ聖楽団に入団できるものは選りすぐりの者しかいない。その誘いを断る者がいることが信じられなかった。
「では、祭りの開催地を変えて、そうまでしても召し上げたいと?」
「はい」
 揺るぎない返答にユリスティーナは若干の眩暈を覚えた。
「………ですがやはり、開催教区を変えるとなると色々な問題があるのではありませんか?特にダルミアト区を担当している枢機卿からしてみれば良い気はしないのでは?」
 枢機卿の力関係という問題がまた浮き彫りになりそうだった。
 現在、枢機卿は全部で六人いる。五つある大教区に一人ずつ、そしてここ王都―――中央教区に一人の計六人の枢機卿だ。
 枢機卿の権力は楽団の教皇でもある国王の次につく。貴族をも凌ぐその力は国の隅々にまで行き渡っていた。
 だが、その六人の中でも差異があるのは隠しきれない事実だった。
担当教区の発展度合いや教会勢力図の分布。要因は挙げだしたらきりがなく、元々国全体の水準を向上させる為に競い合うシステムになっていることが主因にある。
 その為それぞれの教区の繁閑については殊更敏感で、聖フォルトゥナ祭の開催となれば反応も一際だと思ったのだが。
「その点に問題はございません。先日、枢機卿会にてエドワルド大枢機卿のこの提案に、既に他五人の枢機卿の賛同を得ております」
 耳を疑わずにはいられない答えにユリスティーナは重ねて訊いてしまった。
「異論の声は上がらなかったと?」
「はい。エドワルド様がお話しされると皆様が納得されました」
 あまりにもすんなりいった事実に驚きを隠せなかった。いつもなら参列の順番で揉めることがあるというのに、フォルトゥナ祭の開催地を定めるという大事に関わる一件でなぜすんなりことが運んだのか、恐ろしささえ感じる。
 何より、次の定例会の議題といいつつ既に決定事項にあるのだと示されたことが問題だ。
「お父様……教皇には伝わっているのかしら?」
「はい。本日エドワルド様からお話させて頂くことになっております」
 ユリスティーナの父、つまり国王はグレゴリオ聖楽団のトップである教皇も兼任していた。
その教皇に何も知らされず話が進んでいるのではないかと危惧したが、心配で済んだことに一先ず安堵する。
 ユリスティーナに対しても定例会より先に知らされた辺り、少なくとも敬意が表されている証だろう。
 だが、楽団内においての実質的な力は教皇である国王や女神の御子であるユリスティーナよりも枢機卿会の方が格別だった。
 枢機卿の中でも最も力を有するのが中央教区の担当だ。大枢機卿と呼ばれるその地位にある人物はエドワルド。齢七十になる彼が今教会の実権を握っていると言って良い。
 鶴の一声で教会の勢力図さえ転覆させかねない彼に、抗う術も利点もない。
 ユリスティーナもこの議題に賛同する以外に道はなく、それは教皇も同じだろう。
「特別議題についてはわかりました。考えておきます」
 口ではそう言いつつも答えは決まっていた。
 だが、答えは一つだとしてもそれに波及する事柄について意見せずにはいられない。
「ありがとうございます」
 深々と頭を垂れたトレアのつむじを見下ろしながら、次にその顔が上がるのを待ち構える。
「心配なのはダルミアト区ね。今年を楽しみにしているだろうから、変わりに何か特別措置をこうじましょう」
「はい。それはエドワルド様も仰っておいででした。一考させて頂きます」
 提案は自然と受け入れられた。そして話は終わりとばかりに机上のノートをしまい始めるトレアを見つめる。
「これでユリスティーナ様のご負担も軽くなるでしょう。安心して公務に集中出来ますね」
「……………」
 返す言葉はなかった。だがここで話を終わらせるつもりもなかった。最後に女神の御子の話に戻り、ユリスティーナにとっても次の話に結び付けやすくなる。
「それについてですが、わたくしも参ります」
「?」
 トレアの衣服を整える手が止まる。
 訝しげな瞳と真っ直ぐな瞳がぶつかる。
「次なる女神の御子にはわたくしも思うところがあります。この目で見届ける為、わたくしもエルドニア教区に参ります」
 トレアの目が少しばかり見開かれた。言っている意味がわからないというように眉を寄せる。
「ですが祭りが終われば直ぐにでも王都に―――」
「わたくしはそうなる前の姿が見たいのです」
 相手の言葉に重ねてでも主張したいことだった。
 女神の御子の候補者として王都に召し上げられれば、とりまく環境は一変する。
 女神に愛された御子に選ばれるという絶大な名声だけではなく、水面下の派閥争いに巻き込まれるのは必至だった。現御子であるユリスティーナ自身も王家でさえその煽りを受けていないとは言い切れない。
 考えたくはない話だがそれが現実だった。
 運命に翻弄される前にその真実の姿を見定め、出来ることなら導きたい。
 ユリスティーナは強い意思を込めてもう一度言う。
「ローレライの街に、わたくしは参ります」
 トレアは顔をしかめる。よい反応はなかった。
 だが、ユリスティーナも頑として譲ることはしない。定例会はもめるであろうことが予想されたが、それでもここで引くわけにはいかなかった。
 ―――歌は何の為にあるのかしら。
 頭の片隅でちくりと刺したその問が、鈍痛となって疼く。
 音楽を純粋に楽しんでいたあの頃が、遠いものに感じた。